旧ドラえもん製作者証言

このページでは、旧シリーズドラえもんの製作主任を担当していらした
元・日本テレビ動画の真佐美ジュン氏にお話を伺いました。
氏は1965年に虫プロに入社。黎明期のTVアニメの現場に関わり続け、
以降、手塚プロ・日本テレビ動画・ひろみプロで活動されていました。
旧ドラえもんでは製作の総責任者を担っていた方で、
様々なお話を今回伺うことができました。


青字はインタビュアーの言葉、 紫字は真佐美ジュン氏の発言です。 
−ドラえもんの企画は昭和47年夏にはすでに出ていたそうですが。

僕が手塚プロから日本テレビ動画に移ってきた時には既に
ドラえもんの企画があったね。
小学館の担当の方といろいろ詰めてたね。


−日本テレビ動画は東京と新潟にスタジオが分かれていたそうですが。

当時、新潟にスタジオなんて珍しいでしょ?
日本テレビ動画の社長の渡邊清が新潟の財界の実力者の人と関係が深かったから
それで新潟にスタジオ作ってたの。ボクは反対でしたよ。
なんでそんなトコ使うんだって。
だってね、東京と新潟に仕事が分かれてるなんて効率悪すぎるもの。
今日言った仕事を受け取れるのが明日。1日待ってなきゃいけない。
そんなの言語道断だよ。今日言って今日受け取れなきゃ話になんないもん。
あの頃は新幹線なんか無いし、道路事情もわるかったから。
効率悪いったらありゃしない。
あそこは交通事故起こした想い出もあるしね。


−本来、「新オバQ」の後番組なら、
ドラえもんは東京ムービーで  作られていたかも知れなかった訳で。


やっぱやり手だったの。渡邊って社長は。
豪腕というか辣腕というか。 その辺の交渉事は上手かったね。


−しかも、放送が日曜午後七時。超ゴールデンタイムです。

本来、そんな枠なんか通常取ってこれないもの。その辺の政治力はあったんでしょうね。
※(07.9.28補足・映画秘宝の安藤健二氏の記事により、日本テレビ動画の社長の渡邊清とは、
 日本放送映画株式会社発足当時のメンバー・新倉雅美氏の別名であることが判明。)

昭和48年4月1日朝日新聞番組記事

−そして、ドラえもんの製作がスタートするわけですが。 

とにかく、放送はきまったけど、広告代理店とかスポンサーに見せるものを
作る必要に迫られてね。パイロットフィルムを作ることになった。
昭和48年の正月早々には出来てたと思う。
キャラの色指定とか藤子先生に見てもらってね。

今でこそ、国民的な漫画だけどね。当時は連載開始して三年ちょっとでしょ。
原作マンガのストックが足りなくてね。あっても低学年誌のマンガだから
15分のフォーマットだと全然尺が足りない。
そこでオリジナルの要素を 随所に付け足してね。


−やはり、旧ドラは富田耕生さんの声がかなり印象的ですが、きっかけは?

ドラえもんの声優に富田耕生さんを選んだのもね、
やっぱりボクらのイメージとして、「ドラえもんは男だな」ってのがあったの。
ダメなのび太を世話する世話役でしょ?
それにのび太より大きいでしょ?ドラえもんって。
だから世話役のオジさんキャラのイメージがあったし。


−なるほど。世話役のオジさんのイメージ。ヒゲもありますしね(笑)。

そうそう、
だから富田さんにやってもらったの。
ヒゲのおじさんってイメージで、動物キャラも多くアテてるし。
藤子先生もOKしてくれたしね。


番宣写真より。

−当時、ドラえもんをアニメ化、という事について、どう思いました?

学習雑誌に載ってた漫画でしょ。
当時、小学館の学習雑誌買ってもらう子供なんて、おぼっちゃまかお嬢だもん。
普通の子供がみんな読んでたような代物じゃないもんね。


−確かに。書店で買うより、年度の頭に一括金払って年間購読する雑誌でしたし。

そうそう、年間購読契約とかしてたね。

−そういう意味では、ある種、通販雑誌の漫画をアニメ化したみたいなもんですね。

凄い冒険でしょ?凄いことしてたよね。
当時単行本も出てなかったから、 当の子供でもドラえもん読んでるのは
学習雑誌買ってもらってる一部の子供たちだけだもん。
そりゃあ、他の週刊漫画のアニメ化とは訳がちがうものね。


−スタッフについてお伺いしたいのですが。

基本的に作画監督っていう職分は無かったね。
絵コンテ担当の人が絵をやってたもん。
演出はみんなジョーさん(上梨満雄)がやってたし。
だから絵コンテの人次第で絵もクセがでたね。
当時はね、やっぱり限られた予算で安定したものを、ってのが念頭にあってね。
「ドラえもん」ではそういう意味でも新しい人なんかを積極的に登用した。
永樹凡人さんが旧ドラの作画監督として多くの書物にクレジットされてるけど、
頼みませんよ。あんな高い人。(笑)
確かにスタッフに弟の(永樹)龍博さんとか、
同じスタジオジョークのメンバーの名はあるから、
製作にジョークが係わってた 事は間違い無いけど、
凡人さんにやってもらったって記憶が、どうしても無くって。
凡人さんとは昔よく麻雀した仲で、お父さんが一階で「ジョーク」って雀荘やってて、
二階が凡人さんの仕事場・スタジオジョークだったから、
旧ドラ依頼してたら絶対記憶にあるハズなんだけどね。


−アニメージュ系雑誌では、「監督・大貫信夫/演出・正延宏三」となってますが。

卓さん(杉山 卓)が諸悪の根源だよ。
あの人が書いた「TVアニメ全集」っていう研究本にドラえもんのスタッフが
間違って書かれちゃって、以降の研究書はみんなそのデータを元にして
書いてるから、間違った情報がそのまま伝わっちゃった。まあ、当時僕も
業界から離れちゃったりしてたから、訂正する人いなかったのも事実だけど、
卓さんはなんであんな情報書いちゃったんだろうねぇ。

ヌキさん(大貫信夫)は旧ドラには全然関わってませんよ。
先にも言ったけど、CDはジョーさん(上梨満雄)。
だって、当時彼(大貫氏)は 裏番組(マジンガーZ)やってた。
こっちには一切係わってないハズだよ。
※(7/11補足・その後発掘された放映前に作成されたと思われるスタッフ表には大貫信夫氏の名が記載されていることが判明。
 ただ、実際の製作に関わったかまでは不明で、名前の列挙のみに終わった可能性も考えられる。
 この資料には他に製作ローテの下請けとして、アド5、トップクラフトの記載も確認できた。)


演出にマサやん(正延宏三)の名前もあるけど、これも違う。
「モンシェリ」で一緒にやってたけど、
(モンシェリCoco{1972.TBS・日本テレビ動画製作のアニメ})
資料本を編纂してる際に卓さんが
ドラえもんも多分一緒のスタッフだろうってんで、
安易に描いたデータが残っちゃって、今まできている。
マサやん(正延宏三)のスタジオテイクと組んでやったのは、
日本テレビ動画の仕事では「モンシェリ」だけですね。
その前の手塚プロの「ふしぎなメルモ」でも一緒にやってたけどね。
モンシェリも、マサやんははじめ一生懸命やってたんだけど、
入金された受注額のケタみてひっくり返ってた。
宝くじ一等と同じくらいの額を手に入れる事になったんだもん。
それだけTBSも力入れてたから。
で、その大金を手にしたのがいけなかったんだよ。
おかげで放蕩するようになって。飲む場所も一気に高級クラブになっちゃった。
その影響で仕事まで遅れだした。
僕は怒ったよ。そんなんじゃダメだよ、って言ってるのに
いっぺん覚えちゃった遊び癖って、なかなか改善しない。
こっちが怒った時は向こうも反省するけど、
暫くすると、同じ事の繰返しでまた遊んで飲んで仕事落す。
二回、三回…四回同じ事をした時に
「もうダメだ!」と思って、僕、番組の制作から降りたの。
こっちも簡単に許すわけに 行かなかったからね。
マサやんがそれ聞いて慌てて、焦ってこっちに引き止めの電話
かけてきたけど、ここでなあなあで済ませたらいけないと思って
電話に一切出なかった。一晩中、電話鳴ってたけど、我慢して。

結果として番組が立ち行かなくなっちゃって、一クール来たところでバッサリ。
本当ならもっと続ける予定だったもんアレ。
もっとも、マサやんとはその後、私の結婚式に来てくれてね、仲直りしたんだけど。


−モンシェリ〜は原作とキャラが随分異なりますね。

全然違うよね。原作の展開も殆ど使わなかった。
僕も原作読んで無いもん。
大和和紀さんの絵の線って細いもんね。当時のアニメ向きじゃなかったから。
けど、(水着のココのピンナップを指して)マサやんもいい絵描くもん。
だったらこっちも使いたいもの。
そういう思いがあるだけに、あの金がマサやん変えちゃったんだ、と思うと悔しいよ。


−正延さんは、その後色んな会社で仕事してますね。
和光プロ・土田プロ、手塚プロ・東映動画などなど…


その時の借金を返さなきゃならない羽目になっちゃったんだよ。
あ、ごめんね。 話がそれちゃったけど。


−いえいえ(笑)。ドラえもんは放送開始後は視聴率的に苦戦したそうですが。

あの当時、TVアニメで10%切るってのは罪だったからね。
1クール分の製作が終わったあたりで、
以降の製作をどういう方向性で位置付けるか 局とお話したの。
裏番組(マジンガーZ)のこともあったけど、視聴者層は異なると 思ってたから。
けど、「ドラえもんの声が違うんじゃないか?」という意見もあって、
申し訳無い、って言って冨田さんには降りて貰ったけど、すまなかったと思いますよ。

新聞記事写真

−番組が2クール目に入ってテコ入れが入ったわけですね。
ドラの声は野沢雅子さんに、新レギュラーでガチャ子が参入。


番組を2クール以降の方向性としては、「対象年齢を上げよう」という事になったの。
それまではドラえもんが見れた年齢層(幼児〜小四)に絞ってたんだけど、
もう一つ上に行くには、対象年齢層を小学校高学年にまで上げようって事になってね。
丁度、学習雑誌の連載も高学年にまで拡大したから。
そこで、どうしたら対象年齢が上がるか、って考えて、出した結論が
「ドタバタ・ナンセンス性の強化」だったの。
それでガチャ子っていうキャラも出たし、
後半のエピソードはドタバタに引っ掻き回すだけ回して終わるのも多いし。

元々、ドタバタナンセンスってのはスタッフの性にあってたのかもね。
僕が呼んで来るスタッフは虫プロで一緒にやってた仲間が多いから、
だんだん地の虫プロのカラーが濃くなってきたよね。
だから「悟空の大冒険」のようなノリになって来ちゃったね。


−この時期の裏番組「マジンガーZ」見ると、視聴率落ちてるんです。
 ピーク時25%あったのが、14%にまで下降しちゃって。
 ドラえもんに視聴者が動いていたのも事実と思うのですが。


実際、ドラの視聴率は上向きでしたよ。途中からグググッと上がってきたもの。
だから僕等、日本テレビの保養所に呼ばれてね、豪華な接待受けたもん。
そこで、ドラえもんの放送は1年にまで延長されることが決まってたから。


静香写真

−そのまま行けば「マジンガー」との視聴者の
住み分けも出来てたかもしれませんね。
 それが、突然終了になったのは、何故ですか?


8月に入ってすぐに、日本テレビから呼び出しがあって、
行くと日テレのプロデューサーから いきなりこう聞かれたの。
「日本テレビ動画が消滅するかも知れない、という話が下請けのほうから出ている。
本当に消滅したら下請けはお金が貰えなくなるから、
もしその噂が本当なら死活問題なので、
こちらとしては入金の保証があるまで納品しない、という状況になっている。
その話は本当か?」って。
こっちとしてはそんなことは無い、って言うしかないですよ。
そりゃ、こっちにしたって突然の事だし。
結局、日テレさんから「絶対放送に穴はあけないでくれ」って釘さされて。
下請けさんにも「そんなことは絶対にないから。もしあったら俺が責任とる」って
言って回って。


−突然のことだったんですね。

けど、社長が勝手に日本テレビ動画を辞めちゃったの。
かつて社長は東京テレビ動画時代に作った「ヤスジのポルノラマ」で大赤字出してるでしょ。
で、ドラえもんが結構黒字になったもんだから、赤字分取り返した時点で
「もうアニメはヤメだ」と、元取った時点で逃げちゃったんだ。
※(07.9.28補足・その後、社長の渡邊清は海外で映画会社を勃興させるも巧くいかず、
 1986年にフィリピンで拳銃密輸の犯罪を犯して逮捕、送検される。
 その後の消息は一切不明。)

後を引き継いだ会長は、全く会社の経営に興味の無い人でね。
じゃあ、もう止めよう、って事になって、あっという間に解散決定。
あとはもう、メチャクチャ。備品売って下請けさんに渡すお金作ったり、
日テレさんにも出してもらったり。
それでもやっとの事で2クール分、それを最終回にして乗り切ろうとしたもの。
最終回放映された時点で、もう東京の事務所はカラッポ。
ビルをその日の内に明け渡さなきゃならなかったから。
アニメに使ったセルや設定画とかの資料も処分するために業者使うと金がかかるんで、
自分たちで河辺で焼いて処分して。 ライトバン一杯に詰まったセルとか設定とか台本とか。


ガチャ子画像

−結果として、日本テレビ動画は解散した訳ですか。
その六年後、シンエイ版の 「ドラえもん」が出ると、
まるで封印されたみたいに旧ドラは表に出なくなりました。
一時、必要以上に旧ドラが低い評価、悪い扱いをされる時期もありました。


だってさ、ヒドイよね。その後の雑誌や解説なんかじゃロクなこと書かれて無い。
コッチだって丁寧に丁寧に作ってたよ。リテイクも一杯出したし。
音まで入れたフィルムを、リテイクの為に1からやり直した事もある。
作る側は丁寧に、真摯に作ってたし。


−露出していないことが最大の要因なんでしょうか。
フィルムが出てきて再評価出来るようになれば、
評価も変わると思いますが。


日本テレビ動画解散後は、日本テレビが「ドラえもん」のフィルムを管理してました。
聞いてみると、7年間管理してたって。
その期間は全国に再放送のフィルムとしてあちこち流して、
また日テレに戻ってくる、って感じ。だからその7年間は
日テレにフィルムはあったらしいんだけど、
その後は不明なんですよ。
噂じゃ、その後、藤子先生が仕方なく引き取った後、
スタッフが焼却処分したって言ってるらしいんだけど、
その噂も調べると信憑性に欠ける。
この話が「フィルムは焼却されてもう見れない」っていう噂の根源と思うんだけどね。
例えフィルムが残ってても、もう30年以上経ってるから、
ちゃんと保管してないと相当劣化してると思うけどね。


※(07.9.28補足・「IMAGICA」{旧・東洋現像所}にて旧ドラのネガフィルム缶が
16エピソード分発掘されたことが明らかになる。どの話は不明だが、
後半エピソードが中心だという。この発掘されたネガからデュープした
OPからは、どういう訳か「原作・藤子不二雄」のクレジットは外れていたことが判明する。)

−本来、フィルムは製作会社が管理するものですもんね。
その会社がもう無いから仕方ないのかも知れないですが。
日本テレビ動画に参加したときには、特別な思いはありました?


日本テレビ動画って会社の理念として、コレからの人を育成していこうって目的があったの。
やっぱり人材育成は大事よ。虫プロでもそこはキチンとやってたし。
次の世代にちゃんと繋げていかなきゃいけないでしょ。
僕個人の夢だったのはね、ゆくゆくは日本テレビ動画で
手塚先生の作品をアニメ化したい、ってのがあったの。
だって、手塚先生に心酔して虫プロ入った人間だもの。
先生にも本当かわいがって貰ったし。
いっぱい想い出も残ってるし。やっぱりそこはね、外せないですよ。


−最後に、旧ドラに想いを馳せる人達に、なにか一言。

30年以上前に作ったフィルム、僕にとっては最後のTVアニメですから。
見たい、見たい、って言ってくれる人がいるのは嬉しいですね。
いつかフィルムが見つかって、見せられる機会があれば
上映会とか催せればいいんですがね。皆さんの御意見を聞きたいですね。


−本日はありがとうございました。

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