旧シリーズドラえもん・検証と考察

このページでは、旧シリーズドラえもんについて、更なる検証と考察を行ってみました。
昭和48年(1973)において、なぜドラえもんがアニメになったか、
そしてそれがどういう現象をもたらしたか、様々な角度から多角的に考察してみました。


ドラえもんアニメ化企画

そも、ドラえもんがアニメとして放映されるきっかけになったのは何時頃か?
時は1972(昭和47)年に遡ります。
当時日本テレビでは藤子不二雄原作のアニメ「新オバケのQ太郎」が放送中であり、
安定した視聴率を獲得していました。
その新オバQの放送が4クール目に入るか入らないか当りで、
後番組の検討が行われる事になり、その時白羽の矢が立ったのが
連載開始して三年ちょっとの期待の新人「ドラえもん」でした。
小学館側としては比較的早めにドラえもんのアニメ企画は進行していた模様で、
昭和47年8月号の「幼稚園」内の「テレビにんきものチャンネル」というコーナーで
ドラえもんのテレビ化を告知していました。といっても、放送開始告知ではなく、
「テレビにでるのをまっててね」という程度のものでしかありませんでしたが。
水面下では着々と準備が進められていた模様です。
普通に考えれば新オバQを番組改変期の47年9月まで放送したのち、
10月から「ドラえもん」に移行したかったのかも知れません。
製作会社もそのままいけば新オバQの東京ムービー&Aプロに委ねられていた可能性もあります。
が、紆余曲折の結果、製作会社は新興の動画製作会社の
日本テレビ動画が担当する事となり、新オバQとは放送枠も放送曜日も異なる
別番組として登場することになりました。


パイロットと放映枠とスポンサー

日本テレビ動画は当初、「少年次郎長三国志」という、どちらかというと少年講談調というか、
硬派任侠物の作品の制作を社長の渡邊清が切望していたという事です。
当時(昭和47年)は懐古ブームの年でもあり、月光仮面、笛吹童子、赤胴鈴之助といった
昭和20〜30年代の作品が次々リメイクされていた頃で、
「次郎長〜」もそういう所に起因があったのかも知れません。
(社長の渡邊氏が根性物、任侠物が好きだったとの意見もある。)
が、結果的にこれのアニメ化に難航したため、その間のつなぎという事で
ドラえもんの製作に携わる事になります。
局、広告代理店に見せるためのパイロットフィルムも
1973(昭和48)年1月に完成、披露されます。
(このパイロットフィルムは第1話に大部分が流用されたとの事。)
その後、放映枠も決定。
なんと日曜午後7時〜7時30分の子供番組としては最高の枠で放映されることになりました。
日本テレビでは、この日曜午後7時〜7時30分という枠は、本来芸能、バラエティ枠であり、
アニメでこの時間帯に流れたのは後にも先にもこの「ドラえもん」が最初で最後。
(前番組は「サンデーヒットパレード」後番組は「全日本歌謡選手権」)
いかに当時、力が入れられていたかが判ります。
程なくスポンサーも決定。
いすゞ自動車・宮田自転車・ペプシコーラ・津村順天堂・東鳩などが提供に名を連ねました。

旧ドラ原画を修正・着色


旧シリーズの声優

旧シリーズでは青二プロ所属の声優を中心に各配役が決められました。
ドラえもんは富田耕生。動物キャラで定評があったことに加え、
とぼけたオジサンの味も欲しいという理由から決まりました。
のび太の大田淑子、ジャイアンの肝付兼太は「新オバQ」からのスライド。
スネ夫にいなかっぺ大将の西一役で御馴染みの八代駿
静香に同時期、ジャングル黒べぇのタカネさんを担当していた恵比寿まさ子
中途参入のレギュラー、ガチャ子は新オバQの堀 絢子
ほかにも村越伊知郎、小原乃梨子、高橋和枝、雨森雅司氏らなど
当時の一線級が集いました。また、旧シリーズのレギュラーキャラ、ボタ子は野沢雅子が担当、
いなかっぺ大将の女版といった感じのズーズー弁で怪演を披露していました。
が、視聴率の問題からドラえもんのイメージ変更が取りだたされ、
富田氏は降板。後を野沢氏が引き継ぎ、二代目ドラえもんとして活躍します。
(以降のボタ子は誰が担当したか不明。)


旧シリーズのスタッフ

ドラえもんのスタッフは同じ日本テレビ動画で製作していた
「モンシェリCoco」等で使っていたスタッフとは大きく異なります。
多くの文献で紹介されている正述宏三氏の「スタジオテイク」は
一切旧ドラに関与していないことが関係者の証言で明らかになっています。
また、永樹凡人氏も、スタジオジョークは製作に関っていた事は間違いないのですが、
永樹氏自身が関っていたかは不明とのこと。
(永樹氏に頼むと発注費が高いので使わなかった、との事です。)
大貫信夫氏も、放送開始以前のスタッフ表に名前が記載されてはいるものの、
実製作の場に居たかどうかの確認が取れておらず、
名前の列挙のみで終わった可能性もあります。
関わったとしても、パイロットフィルム、第1話の絵コンテ程度かもしれない、
というのが関係者の意見です。
製作は日本テレビ動画新潟スタジオ・スタジオジョーク・アド5・トップクラフト
4班ローテーションが当初予定されましたが、
実際は番組開始前後にスタッフの変更もあったようで、
確定とは行かなかった模様。しかし、旧虫プロのスタッフや
当時ロックアウト中だった東映動画のスタッフなども参加して体制を整え、
チーフディレクターとして虫プロで活躍されていた上梨満雄氏を迎え、
番組製作の体制は出来あがりました。


旧シリーズの音楽

旧シリーズの音楽を担当したのは越部信義氏。童謡「おもちゃのチャチャチャ」で有名ですが、
アニメでも「昆虫物語みなし子ハッチ」「ジムボタン」「ジェッターマルス」を担当。
藤子作品では白黒版の「パーマン」を担当されています。
本作品には主題歌・副主題歌・二つの挿入歌ならびに劇伴を担当していますが、
基本的にマイナー旋律で作曲されている為、どこか哀愁感じる曲になっています。
(「ドラえもんいんできしぃらんど」除く)
越部氏が多才だなぁ、と思うのは、4つの曲すべて曲調をガラリと替えている点でしょうか。

「ドラえもん」…演歌&音頭
「ドラえもんルンバ」…ルンバ
「あいしゅうのドラえもん」…ワルツ
「ドラえもんいんできしぃらんど」…ジャズ


越部氏自身、結構楽しんで作曲されていたのかもしれません。
で、劇伴、いわゆるBGMですが、
その8割近くが主題歌&挿入歌のアレンジ、もしくはインストゥルメンタルになっており、
オリジナルスコアは余りありませんでした。また、主題歌も挿入歌も基本マイナーメロのため、
これをBGMにするとどうしても雰囲気が悲しげ、かつ暗くなってしまったのも事実。
旧ドラが「暗いアニメだった」という当時見ていた人の 感想は、
物語よりも音楽によるところが大きいのではないでしょうか?


マーチャンダイジング

商品化権についてですが、ドラえもんは主だったスポンサーに
玩具メーカーがついていなかったこともあって、
おもちゃとしての展開は余り目立ちません。
が、週刊TVガイド1973年3月24号の記事にはこうあります。

「ところで、こうした新番組の登場とともに話題となるのがマーチャンダイジング。
つまり、劇中に登場する人物、怪獣、武器の商品化、さらに主題歌のレコードなどの発売だ。
『ドラえもん』ではマジックボールペン、ノート,シール、玩具、人形、電動人形、(中略)
といった調子で放送スタートと同時にモーレツ商戦を繰り広げるべく手ぐすねを引いている。
一部ではすでに売り出されたものもある。」
と、
実に幅広い展開が紹介されていたように記述されています。

玩具写真

しかし、実際にこちらで確認できたのはこのタカトクのソフトビニール人形。が、これは
原作キャラのドラミがいるところから見て、アニメに促した販売品とは言いがたいようです。
(に、しても、どうしてのび太は商品化されなかったんだろうか?
 売れなさそうな顔してるから?(ネオ・ユートピアの記事によれば
「のび太になりきって遊ぼうというコンセプトだったとのこと。」)


(2011.4.13追加) スタンダートソフビ。タカトクの別の広告より。ジャイアンの名前が笑えます。

タカトクソフビ広告


大型サイズのドラえもんソフトビニール人形。同時期ドラミも販売されたはずですが
ここではドラえもんのみ。

大ソフビ


ドラえもん乳母車。多分既存の商品の乳母車のおもちゃとドラソフビ大人形をあわせただけのもの。

乳母車


ドラえもん指人形。のび太初商品化。入れ替わりにスネ夫が消えてます。

指人形



小学館のドラえもんアピール作戦


当時、掲載雑誌の版元小学館は、ドラえもんのアニメ化に際して
どのような誌上展開をおこなっていたか?
実は、あまり大っぴらにやっていなかったりします。
扉に「4月1日からテレビに出るよ」というあおり文句がある程度。

小学一年生記事

小学1年生などの雑誌には見開きで「テレビでもドラえもんがはじまるよ!」という
今後放映されるエピソードのダイジェストが掲載された程度。
「てれびくん」の前身でもある小学館のTV雑誌「小学館BOOK」にすら
一切記事紹介が無い。
その代りなのでしょうか。昭和48年6月号より、
「別冊少年サンデー」(少年サンデーの月刊版)において、
ドラえもんの連載がTVと同時進行で開始されます。
全て学年雑誌の再録ですが、掲載内容はTV化されたものを中心に行ってる模様です。

別冊少年サンデー昭和48年6月号扉絵

これは、当時学習雑誌にしか掲載されておらず、単行本も発売されていないドラえもんを、
普通の少年読者にもアピールして、TVともども認知度を上げようと言う
小学館側の戦略だったと思われます。
この「別冊少年サンデー」でも大掛かりな特集は一切ありませんでしたが、
随所に「テレビもみよう」という一コマ広告が盛り込まれて、
TVの告知に一役買っていました。

小学館雑誌TV告知記事

別冊少年サンデー昭和48年7月号扉絵別冊少年サンデー昭和48年8月号扉絵
別冊少年サンデー昭和48年7月号扉絵別冊少年サンデー昭和48年8月号扉絵
別冊少年サンデー昭和48年9月号扉絵別冊少年サンデー昭和48年10月号扉絵
別冊少年サンデー昭和48年9月号扉絵別冊少年サンデー昭和48年10月号扉絵
別冊少年サンデー昭和48年11月号扉絵別冊少年サンデー昭和48年12月号扉絵
別冊少年サンデー昭和48年11月号扉絵別冊少年サンデー昭和48年12月号扉絵

別冊少年サンデー昭和49年1月号扉絵
別冊少年サンデー昭和49年1月号扉絵
別冊少年サンデー昭和49年2月号扉絵
別冊少年サンデー昭和49年2月号扉絵
別冊少年サンデー昭和49年3月号(休刊号)扉絵
別冊少年サンデー昭和49年3月号(休刊号)扉絵

連載はTV放映終了後も続けられ、雑誌が休刊する昭和49年3月号まで全10回続きました。
雑誌の休刊理由は「紙不足」。今では信じられない理由ですが、
当時石油ショックによる影響で紙が不足し、
これを機に休刊の運びとなった訳です。


突然の終了


開始当初は様々な要因から視聴率は低空飛行でした。
理由としては以下の理由が上げられます。

※原作の知名度がまだ低かった。
※裏番組が強力だった。(マジンガーZ・アップダウンクイズ)
※本来アニメ枠でなかった場所での放送だったため、視聴者を開拓する時間がかかった。
※玩具等の児童層へのアピールが希薄だった。
※雑誌のパブリシティ展開が学年雑誌オンリーだった。

当初はシングルの視聴率だったため、中途で主役の声優を交替させたり、
内容の路線変更(人情ギャグ路線→ドタバタナンセンス路線)を行ったりと、
テコ入れすることになっていった訳ですが
その甲斐あって、夏を迎える頃には10%ほどの視聴率を維持
(それでも当時としては低いほうでしたが)。日本テレビ側としても裏番組の事情を
知っているが故に、「あれらを向こうに回して10%なら」と言う事で、
ほどなく更に2クールの放送延長も決定していました。

ちなみに、当時の日本テレビの子供向け番組(1973.4〜9)のラインナップを見てみると、

アニメ
「ドラえもん」

特撮
「白獅子仮面」
「流星人間ゾーン」
「ファイヤーマン」
「スーパーロボットレッドバロン」

といったラインナップです。アニメはドラえもんの孤軍奮闘といった有様で
アニメに関してはは系列局の大阪・よみうりテレビが
「おんぶおばけ」「侍ジャイアンツ」「冒険コロボックル」といった作品を
この時期は日テレに供給していました。
日テレは他の局に比べてTVアニメでは遅れを取っていた感があり、
新オバQが成功したので、同じ路線のドラえもんを大事にしたかったのかも 知れません。

が、終焉は突然やってきます。製作の日本テレビ動画の突然の解散です。
社長が突然辞任してしまったのをきっかけに体制が狂い、結果として
これ以上の動画製作が不可能になってしまったのです。 これから、という時の解散。
結果的に非常に後味の悪いものを残すかたちで
旧シリーズのドラえもんは急遽2クールで打ちきられてしまいました。



新シリーズ・消滅・再会

「最初は当らなかったドラえもん」
大山(大山のぶ代)でもね、昔、他局で放送した最初のドラえもんって、のび太くんよりも大きかったの。
   身長が1メートル30センチ以上あってね、体重129キロくらい。
砂川(砂川啓介)ほとんど雪だるま(笑)
大山 そう、だから最初は男の人の声だったの。
   それをうんと小さくして4頭身、5頭身ぐらいにして、可愛くしたの。
   そしたら当ったのよ。
    最初は当らなかったもんだから、藤子先生が
   「一度嫁に行って傷ついて帰ったきた娘みたいなもんだから、
   もう二度と世間(TVの事か?)には出したくない」とおっしゃっていたんだけど。
砂川 テーマソングも悲しいものだったよね。
大山 そう、二度目のときは「こんなこといいな」だもんね。
(砂川啓介 著「カミさんはドラえもん」双葉社・2001年10月20日発行より抜粋)

さて、テコ入れなども行いましたが、会社の突然解散という異常事態によって
短い命を終えた旧シリーズ「ドラえもん」(詳しい事はインタビュー頁にて。)ですが、
会社解散後は日本テレビが旧ドラのフィルムを管理。
1980年ごろまでリピート用フィルムとして各地方局に貸し出していたそうです。
管理期間の7年が過ぎると、フィルムは日テレの手を離れ、以降のフィルムの行方は
一切判らなくなってしまいました。時を同じくしてシンエイ動画版ドラえもんがスタート。
国民的アニメとなり人気を博し、旧作についての残された資料や映像が皆無な事も手伝って、
旧シリーズは「幻」となってしまったのです。
小学館の対応も非情なもので、今やドラえもん36年の歴史の年表を見ても、
テレビアニメは1979年のシンエイ版が最初のように書かれており、
1973年の日本テレビ版は「なかったこと」にされているのが
現状です。(マニア向けの「ドラえ本」や、「ぼくドラえもん」創刊号には記述あり。)
ある種、封印された感のある旧シリーズ。新作がヒットするにつれて
旧作に対するよからぬ噂や事実誤認の情報が跳梁跋扈し、
結果、旧シリーズについてのイメージは必要以上に悪いモノにされてしまったフシがあります。
少なくとも2006年までは。


2006年、当時日本テレビ動画の製作主任であった真佐美ジュン氏が所蔵していた
ラッシュフィルムが公開され、30年振りに旧ドラを見ることができました。
ラッシュ=本放映前にNGになったバージョン=であるため、
放送で実際に流れたものとは厳密に言えば異なるのですが、
まさしくそれは子供の頃ブラウン管で見た、あの頃のドラえもんでした。
確かに、現在のTVアニメと比較すると、作画も動画もアラが見えます。
作画担当の人によってキャラもまるで別人ですし、単純なミスも目に付きます。
(口パクが無いのにセリフが聞こえる、など)しかし、
昭和48年当時の他のアニメ番組と比較した場合、
それほど取り立ててレベルが低いとは言えません。
また、「原作とイメージが違いすぎ」(小学館・ドラえ本3)という意見も、
当時は原作のストックが足りない上に、初期の思考錯誤の時期の原作をネタにしている以上、
今のドラと同じに見るのは酷な話で、ある種、製作条件が違う訳ですから、
単に非難するのは誤りでしょう。
「当時は、こういう作り方に限られざるを得なかった」という、
状況を把握した上で、改めて作品を見ると、
また違った旧ドラが見えてくるのでは無いでしょうか?

残されていた原画を修正・着色。


最後に…。
とりあえず、現状で調べられる限りの旧ドラについて 今まで調査、発表してきました。
思えば幼稚園の頃に旧ドラの再放送で出会い、
以降、その時を含めて2回の再放送のみで消えたあの時だけのドラえもん。
レトロブームや懐アニメブームの際にも一切姿を見せる事無く、
同級生で見てた、覚えてた人も多いのに極度に露出の低いこの旧シリーズを
不思議に思っていました。
そこで、個人的興味から新聞や雑誌を調べはじめたのが もう4年以上前でしょうか。
が、現行の雑誌や研究書には記載記事が皆無に等しく、
調べれば調べるほど、情報の少なさに唖然としました。
過去にも懐かしいアニメをいっぱい調べてきたのですが、
旧ドラほど、情報、露出のないアニメは初めてで、
こんなことってあるものか!と嘆いたものです。

そんな折、インターネットを初め、情報を探していると
おおはたさんのサイトを発見。当時見ていた方の詳細なストーリー内容、
細かい情報、データと、今まで靄に隠れて見えなかった旧ドラの情報が
一気に見えました。一時諦めかけていた旧シリーズの追跡が
おおはたさんのサイトと出会ったおかげで、再び始まることになりました。
気が付けば国会図書館、国際子ども図書館等々に
上京する度に入りびたって資料の散策すること3年余り。
テレビ関係、オモチャ関係、放送批評系、地方紙、幼児誌と
思いつくところを殆ど当ってみました。そんな折に当時の製作者でもある
真佐美ジュン氏のHP公開は、それまでの靄を一気に吹き飛ばすモノでした。
当時のセル画、貴重な資料の数々、目から鱗の連続。
脳のかなり奥の引き出しに入っていた幼少の頃の記憶が
吹き出てくるような感覚を覚えました。そして2006年、
真佐美氏の所蔵していた本編ラッシュフィルムの公開で、
遂に33年前のあのドラえもんとの再会です。
45年後…ならぬ33年後ですね。
思えば余りの資料のなさに追跡調査が途方も無いように思えた4年前。
まさか、当時の製作者の方とお会いして
フィルムを見せて頂ける状況になろうとは
想像だにしていませんでした。

現状で、私が知り得た旧シリーズ・ドラえもんに関する情報は全て本HPにて公開致しました。
今後、新たな情報があれば、随時追加していく予定ですが。
…どっかの保管倉庫に眠ってないかなぁ…。旧ドラの放送用16mmフィルム。
それが出てくれば、もう幻とは言わせないのですが。

戻る  過去ログ

   inserted by FC2 system