日本TVアニメ黎明期(1963〜1965) |
まず、話は1963年(昭和38年)、 日本初の連続30分アニメーション番組「鉄腕アトム」が放送され、 大ヒットを飛ばしたところまで遡ります。 このアトムのヒットに度肝を抜かれた各テレビ局は、ならばウチも、とばかりに 各アニメーション製作会社にTVアニメの製作を次々依頼します。 「アトム」を放映していたフジテレビはCMアニメを製作していたTCJ (現・エイケン)に「仙人部落」「鉄人28号」、 発足したばかりのピープロには「0戦はやと」「ハリスの旋風」を、 子供番組に力を入れていたNET(現・テレビ朝日)はもともと繋がりの強かった 東映の系列会社・東映動画と契約して「狼少年ケン」「少年忍者 風のフジ丸」を、 TBSは同じくTCJに「エイトマン」「スーパージェッター」、 更には人形劇の製作会社、東京人形シネマに強引にアニメを作らせて、 「ビッグX」を、(のちにこの会社は東京ムービーになる。)という狂乱振り。 アトムから2年もしないうちにあっという間にTVはアニメの巣窟と化してしまいました。 視聴率はもちろん関連商品も大ヒット。 一時は「漫画が付かなきゃ商品が売れない」と関係者に言わせしめるほどの大反響。 まだTVアニメが珍しい、黎明期ゆえの話であります。 さて、民放各局が国産アニメを次々放送しているこの時期、 なぜか一局だけ国産アニメを流さない局がありました。民放の老舗・日本テレビです。 詳細は不明ですが、 日本テレビはこの時期「ディズニーランド」という番組をもっており、 隔週でウォルト・ディズニーの短編アニメを放送していました。 知名度も完成度も圧倒的に優位なディズニー作品を流しておけば、稚拙な国産アニメに頼らざるとも、 という考えがあったのかも知れません。 しかし、状況は一変します。アトム放映から2年もすると国産アニメの人気は沸騰。 常時30〜40%の視聴率を稼ぎ出し、子供の話題を独占。 それに引き換え、「ポパイ」「ウッドペッカー」といった、それまで放送されていた外国アニメが この時期各局から一斉に姿を消します。当時の子供たちのニーズは 「雑誌でみた漫画がテレビで動いてる」国産アニメに集中していたのです。 (加えて、輸入アニメは高額だったという事もありますが。) ここにきて日本テレビはようやく国産アニメの放送に乗り出そうとしますが、 主なアニメ製作プロは既に他局に抑えられており、 日本テレビの入り込む余地は残っていなかったのです。 |
誕生期・「日本放送映画株式会社」(1965〜1968) | |||||||||||||||||||||
丁度時を同じくして、実写映画を製作していた映画会社「国映」が 自社の出資で動画会社を設立。「日本放送映画株式会社」 (以下、日放映と略)が誕生します。(1965)日本テレビはこれ幸いと専属契約を結び、 日放映は日本テレビ専属の動画会社としてスタートします。 当時はアニメーターの絶対数の足りない時代でもあり、日放映も人材が不足しており、 まずはスタッフ集めからという有様でした。 結果として他社から人材の協力を要請することになり、 新倉雅美氏を中心に、虫プロからは池野文雄・富野喜幸・岡迫亘弘・ 正延宏三・村野守美氏らが加わり、そこに東映動画・東京ムービーからの アニメーターも参加して体制を整え、同年12月に初のTVアニメ「戦え!オスパー」を 製作、放映するに至ります。
日本テレビとの関係をさらに強化すべく、第二作目は夕方の帯アニメを 任されることになります。 しかも日本テレビの人気番組「おはよう!こどもショー」とのコラボレーションアニメです。
以降この時間帯(月曜〜土曜18:35〜18:45)は長きにわたって 帯アニメの時間帯として認知されます。 バッチリの放送後、矢継ぎ早に登場したのがこちら。
が、日放映の製作デスクでもあった新倉雅美(のちの「渡邊 清」)氏が、 出資元でもあった国映の傘下を離れて独立。元日放映のメンバーを再結集する形で、 新たなる製作会社「東京テレビ動画」を立ち上げます。 |
転換期「東京テレビ動画」(1968〜1971) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
先の帯アニメの時間帯をそのまま引き継ぐ形で 東京テレビ動画第一作「夕焼け番長」はスタートします。 原作者・梶原一騎を招いての製作発表を行ったりと、 かなり局側も力を入れてくれていた事がわかります。 東京テレビ動画になってからの路線はズバリ「根性物」。 TVシリーズ四作品全てが「巨人の星」のヒット期の時流にのった根性物で くくられている事がわかります。
半年間の本放送&半年間の再放送で一年を消化し (この放映スタイルは東京テレビ動画作品の基本型になる。) 次作「男一匹ガキ大将」へと引き継がれます。
ゴールデンタイムの30分番組を任せられます。 メキシコ五輪で銀メダルに輝き、一時沸騰したサッカー人気に 乗っかって、梶原一騎の原作を元に製作されたのがこのアニメ。 もとは南浦和高校サッカー部の実話をモデルに作られた熱血漫画です。
この作品の後、東京テレビ動画は転機にさしかかります。 古巣・日本テレビのベルトアニメ路線が金銭トラブルなどもあって消滅。 (一説によれば局関係者との金銭授受問題が発覚したから、とも) そんな折に心機一転というか起死回生を狙うが如く、 唐突に劇場用ポルノアニメ制作に取り掛かることになります。 当初は配給元すら決まらない状況での制作でしたが、 虫プロと組んで大人向けアニメ「アニメラマ」で実績を上げた 名古屋の配給会社「日本ヘラルド」が配給を決定。 当時最もバカウケしていた時代の申し子たる谷岡ヤスジのマンガを題に得て、 異色のポルノアニメがここに誕生したのです。その名も
当時の映画評でも酷評され、不入り故に一週間で公開打ち切り。 「ポルノなら何でも当る」と言われてたこの時期に上映打ち切りというのは 前代未聞でしょう。当然ながらこれに製作機構の全てを傾けていた 東京テレビ動画の基盤は一気にガタガタになりました。 そして、東京テレビ動画という会社は消滅します。 |
再出発・終焉「日本テレビ動画」(1972〜1973) | |||||||||||||||||||
ヤスジ〜の大失敗から半年、東京テレビ動画のスタッフは再起をかけて 社名も新たに「日本テレビ動画」(N・T・A)を立ち上げます。 それまで専属的に仕事をしていた日本テレビとは東京テレビ動画時代に いろいろあった経緯から離れざるを得なくなり、 新たな舞台、TBSでの仕事を開始します。
古巣とも言える日本テレビに復帰。 新企画「ドラえもん」のアニメ製作に携わります。 アニメ化決定は昭和47年夏ごろで、当初の予定では 当時放送中だった「新オバケのQ太郎」の後番組として 考えられていたようです。それ故、当初は東京ムービーが ドラえもんをその流れで製作する可能性もあったのですが 某関係者の鶴の一声が轟いたこともあってか、 日本テレビ動画がドラえもんの製作担当にあたります。 スタッフは日本テレビ動画メンバーのほか、 「新オバQ」に携わっていた演出家やライターが参加、 声優陣も「新オバQ」からスライドした面々が目立ちます。 同じ藤子アニメとしてイメージを統一する、という 局の意向が働いたためでしょうか?とにもかくにも 昭和48年4月1日、ドラえもんはアニメとなって日曜夜七時に登場します。
取りあえず一年は放映できそうだ、と思っていた矢先に 日本テレビ動画は解散を決定します。 (詳細は真佐美ジュン氏のサイト内・ドラえもん頁の「最後の日」の項に詳しい。) 最終回放送時点で、既に日本テレビ動画のオフィスは引き払われていました。 ブラウン管に映るドラえもんを描いたスタジオのデスクに、既に人は無く、 様々な想いを馳せた設定集やセルがゴミとして処分されました…。 こうして、足掛け9年、日本放送映画(株)→東京テレビ動画→日本テレビ動画という 動画製作会社はその短い生涯を閉じたのです。 |